それは面白い

サンクトペテルブルクは、まだ若い町で、たった300年しかたっていません。しかし、ヨーロッパの大都市の中では、古い方です。1917年までに建てられたペテルブルグの建物はほぼ完全に保存されていて、その数は現在約1万8千を数えます。ほかのヨーロッパやアメリカの都市で、これほど古い建物が数多く保存されているところはありません。ペテルブルグは「オープンエアー博物館」だと言われる由縁もそこにあるのでしょう。また、古典様式、折衷様式、アールヌーボーなど、一度にこれほど多くの建築様式を見られるところも他にはありません。

サンクトペテルブルクには、ロシアで一番の高さを誇る聖堂があります。ペトロパブロフスク聖堂です。空を飛ぶ天使の像を掲げる金色の尖塔を持つ鐘楼の高さは、122.5メートルです。

1941年から1945年の戦争中、レニングラード封鎖にあったこの街の人々は、価値のある建築物や彫刻をできるだけ空襲から守るために隠し、カモフラージュしました。青銅の騎士像には首から砂の袋をぶら下げ、金色のイサアク聖堂の円屋根やペトロパブロフスクの尖塔には、灰色のペンキが塗られたり、海軍省の金色の尖塔には、特別の覆いがかぶせられたりしました。

海軍省の尖塔の高さは72メートルです。その上の船の形の風向計の重さは65キロもあり、金は2キロも使われています。建物全体の長さは407メートルです。

アーニチコフ橋の彫刻家クロートの彫刻コンポジション「人で馬を飾る」は、当時の人を驚かせ歓喜を呼びました。それが評判となり、ベルリンの皇帝の宮殿やナポリの王宮、ペテルゴフの「ベルヴェデーレ」、モスクワ郊外のクズミンカ馬庭園から同じものの注文が寄せられたほどでした。

サンクトペテルブルグの地下鉄は、世界で最も深いものです。この町は湿地帯に建てられた町なので、地下鉄のトンネルは岩盤の下でなければなりません。サンクトペテルブルクの地下鉄のトンネルは、地下70~80メートルのところを走っています。

サンクトペテルブルグは、路面電車(トラム)の首都でもあります。市内のトラムの全路線の長さを合わせると600キロ以上にもなります。これはギネスブックにも載っています。

サンクトペテルブルグには、馬が2本足で立っている銅像があります。この2点だけで支えられている馬の彫刻は、世界で唯一のものです。イサアク広場にあるニコライ1世の銅像で、彫刻家ピョートル・クロートの作品です。

ペテルブルグの白夜のシーズンは5月25日に始まるとされています。6月21日か22日ごろまでは一年で一番明るいときで、真夜中の空にも星はほとんど見えません。夏至から3日後には徐々に日照時間が短くなり、7月17から18日ごろが白夜のシーズンの終わりだと考えられています。

サンクトペテルブルクは、300年の歴史の中で何度かその名前を変えてきました。「ピテルブルフ」というのが最初の名前でしたが、のちに「サンクトペテルブルク」と呼ばれるようになりました。また「ペトロポリ」や「ペトロポリス」と呼ばれていたときもありました。1914年には「ペトログラード」と名付けられ、レーニンの死後1924年には「レニングラード」と改名されました。そして、最初の「サンクトペテルブルク」という名前に戻ったのは、1991年のことでした。

アレクサンドルの円柱が倒れるのではないかと、その近くを通るのを避ける人が大勢いました。アレクサンドルの円柱はその重さに支えられて立っているだけで、なんの留め金も支えもないからです。そんな市民の不安を和らげるために、モンフェランは円柱のそばを毎朝犬と一緒に散歩して歩いたと言われています。

レーニンと天使。1930年代、アレクサンドルの円柱の上の天使をレーニンの像にするという計画がありました。

イサアク聖堂建設当時、ひとりのエンジニアが仕事を楽にするためにあるものを考え出しました。しかし、このエンジニアは褒められてボーナスをもらうどころか、反対になぜもっと早く考え付かなかったのかと厳しく罰せられ、それまで無駄に経費がかかったとその経費の分の罰金を科せられてしまいました。

サンクトペテルブルクは、路面電車の走行距離の最も長い町(600キロ以上!)としてギネスブックに載っています。

ペトロパブロフスク要塞の近くを散歩しているときに、もし大きな射撃音が聞こえても驚かないでください。毎日12時ちょうどにナルィシュキンの砦の大砲が空砲で時間を知らせるのです。これは、ピョートル1世のときからの伝統で、当時は昼休みの始まりを知らせるものでした。

エルミタージュのコレクションは、300万点にのぼり、5つの建物の350室に展示されています。1点につきたった1分しか見ないとしても、全部見るのには8年間もかかり、20キロも歩かなければならないと言われています。